ボルガライスにつて-最新確定稿-


我がまんま外観

我がまんまのボルガライス


福井名物として知られるボルガライスですが、長年その起源や名前の由来については謎とされて来ました。

その中で、以前にこの料理が浅草発祥ではないかといくつかの根拠をあげてこちらで紹介させていただきましたが、最近、そこで取り上げたクスノキ屋がご実家であったと言う方から連絡があり、更にその方の旦那様はそこで働いていたコックさんで現在西浅草で店を開いていてそこでクスノキ屋で出されていたボルガライスを提供されていると言う情報を頂いたため、その店にお伺いさせて頂きました。

お店の名前は「我がまんま」。洋風居酒屋の形態でされていて小さな店ですが地元では人気のお店のようです。事前に予約を入れた上でお邪魔致しました。

お料理を頂きながら、お客様の途切れたタイミングで色々とお話をお聞きすることができました。お聞きしたお話は詳細にわたり後世に記録として残して行くべき歴史的価値のあるものと判断し許可を得てここに公表させていただきます。飲食しながらの歓談形式でのお話なので、やや脈絡に欠ける点もありますがご了承下さい。以下、お話頂いた内容の中でクスノキ屋についてとボルガライスについてに分けて、ほぼ話の登場順にまとめておきます。

 

クスノキ屋について

元々は銀座の山野楽器の横で喫茶店をされていた。

当時は銀座より浅草の方が栄えていたため浅草に移転した。(恐らく1950年頃)

少なくとも現在60歳のお姉さまが生まれた時にはクスノキ屋はあった。(1962年)

30年前頃に閉店(1990年頃)

子供の頃、約50年ぐらい前(1970年頃)はケーキ屋も含め多くのコックさんがいた。

一時はコックさんが10人ぐらいいた。

コックさんたちは数年修行をしてそれぞれの地方に帰っていった。

ボルガライスを福井に伝えた山口さんという方には記憶がない。

大勢のコックさんたちが短期間で入れ替わっていたので覚えていない。

銀座の時は喫茶店はやっていたが洋食はやって無かったのでボルガライスが出来たのは浅草に来てから。

昔はステーキ部門の店が亀戸にもあった。おじいちゃん(初代)は兄弟が3人いて次男のおじさんがその店をやっていた。

銀座の時は入り口にオウムがいて浅草に来てからはカナリアとか文鳥とか鳥が居る変わった店だった。

店の3階が家で大きな鳥用の部屋があった。おじいさんが鳥好きだった。

ワシントンライスとボルガライスが2枚看板だった。ボストンライスという料理は少なくともクスノキ屋にはなかった。

1階がケーキ店、2階が喫茶部で50人ぐらい収容の大きなレストランだった。その裏にケーキの工場があった。

クスノキ屋のあった場所は現在駐車場になっている。ひさご通りの真ん中、正面が初音茶舗、隣が服屋のなるみや。

昔は花やしきの入り口がひさご通り側にあった。当時は入園無料だったのでたいそう賑わった。

遊園地帰りのお子様連れの方が多かった。お子さんには当時4つ玉の入ったガムをあげていた。

クスノキ屋の写真は以前あったのだが今はどこに行ったかわからない。

 

ホルガライスについて

当初金属プレートで提供されていた。

自家製ケチャップのケチャップライスに野菜と卵で閉じたカツが乗った料理でカツの乗ったオムライスではない。

油は全てラードを使用していた。厨房にはラードの一斗缶があった。

ボストンライスについての記憶はなく小さい時からボルガライスだった。

これと鶏肉入りのチキンライスにホワイトソースがかかったワシントンライスと言うのがあった。

ワシントンライスは見た目の白さからホワイトハウスをイメージして、そのホワイトハウスがあるワシントンから命名された。

ワシントンライスとボルガライスが2枚看板だった。ボストンライスという料理は少なくともクスノキ屋にはなかった。

銀座の時は喫茶店はやっていたが洋食はやって無かったのでボルガライスが出来たのは浅草に来てから。

三ノ輪のとんかつたかはしでもボルガライスがある。(閉店したと伝えた)

現在我がまんまで提供しているボルガライスはクスノキ屋で提供していたものと形は同じ。

ただソースは当時はデミグラスだったのが現在は少し変えてある。

お父さん(二代目)の話によるとおじいちゃん(初代)が洋風のカツ丼を作りなさいと言うことでコックに作らせたのが最初。

ヴォルガ(-ドン)運河に因んで命名された。

ケチャップライス作って、カツ揚げて、野菜炒めて卵で閉じて乗っけて、とコックにとっては大変面倒くさい料理。

半熟卵は加減が難しい。強火で中が固まる前に止める。強火だと回りは固まるが中は半熟になる。

十数年前、昔クスノキ屋の裏に住んでいた人からクスノキ屋の話になりボルガライス懐かしいな、食べたいなという事になり作るようになった。

浅草の古い店ではリスボン、大坂屋などがある(あった)がいずれもボルガライスはやってなかった。

三ノ輪にボルガ(ヴォルガ屋)という喫茶店は実在した。入った事はあるがボルガライスはメニューになかった。

 

まずは、結論からです。

ボルガライスは浅草ひさご通りにあったクスノキ屋(1940か1950年頃創業-1990年頃閉業)でボルガ運河(ヴォルガ-ドン運河)に因んで洋風カツ丼を作れとの号令により創作された料理。現在、ご存命の初代の奥さん(昭和10年、1935年生まれ現在87歳)が20歳で嫁入りされた時(1955年)には既にボルガライスがあったとの証言から、ヴォルガ・ドン運河開通の1952年以降、1955年までに考案された。その後、福井のカフェド伊万里開店(昭和61年、1986年)にあたり東京から招いたシェフにより福井に伝えられ福井で定着した。現在は発祥の浅草では「我がまんま」のみで提供され広がりを見せないが、福井では地域的な広がりを見せご当地グルメとして認知されている。

 


カフェド伊万里のボルガライス

我がまんまのボードメニュー



 クスノキ屋さんについては、恐らくボルガライスの発祥に大きく関わっていると考えられながらも、これまで詳細に関しての情報に乏しく、近隣にボルガライスを提供する店も見当たらなかった(我がまんまさんに関しては見逃しておりました)ため、それ以上の真相究明は困難と思っておりました。しかし、今回、当の当事者である、ご子息とそこで働いておられたコックさんと言う強力な証言者にお話をお聞きする機会を得て、長年謎とされ推測でお話するしかなかった事実について、具体的な証言を得ることができ、事実上ボルガライスの由来、発祥に関する議論に終止符が打たれたものと考えております。上記の事実は、カフェド伊万里の奥野さんの証言とも矛盾がなく、また実際にカフェド伊万里、我がまんま両店のボルガライスは形状や味の印象、特に卵の具合など酷似していると感じました。この事から福井のボルガライスは浅草のボルガライスをカフェド伊万里で再現した所から始まったと言うことは間違いないでしょう。

 

なお、ここで申し上げておきたいのは、浅草発祥が確定したボルガライスという料理ですが、それが世に知られる様になったのは福井、越前市で広がりを見せたからと言う事実に相違はなく、少なくとも浅草ではほぼ途絶えた料理であるという事を考えても、「福井の郷土グルメ」と言う事実に間違いはないという事です。この事は既に全国的にボルガライス=福井の料理と認知されている事、特にお膝元の東京においても、さらに、発祥店の系譜を継ぐ「我がまんま」においても福井のB1グルメと紹介されている事からも「福井の郷土グルメ」である事は間違いないでしょう。