History 松江カツライスの歴史

カツライスの起源

 

 カツライスの歴史を語る上で、大阪の大井食堂という店を外すわけには行きません。昭和4年(1929年)頃、大阪の浪速区大国で創業のこの店は、その2年後ぐらい(昭和5~6年)にカツライスを提供するようになりました。当時、大戦前の物資が不足していく中、この店ではヤミ米の仕送りにより米だけは十分にあったそうです。また、当時この店は大変忙しく、時短と、希少な野菜無しで作れるメニューとして、このメニューは誕生したそうです。恐らく、これが日本で初のカツライスだと考えられられます。

 

松江カツライスの誕生

 

 松江で初めてカツライスを提供した店は、恐らく、現在でも松江市片原町で営業を続ける「西洋軒」だと思われます。

西洋軒は昭和7年創業で、創業者である先々代のご主人は、神戸の「精養軒」という店で修行をされたそうです。現在のご主人によると、カツライスは創業当時からメニューとして有ったのではないかとの事です。その理由としては、西洋軒の歴史の中で創業当時に考えられる限りの洋食メニューを考案し、現在に至るまで新たなメニューを加えたことがなく、現在のメニューは、そこから徐々に絞り込まれて落ち着いたものだからだそうです。これがもし確かなら、大阪で昭和6年頃始まったカツライスはその1年後には、松江でも提供されていたということになります。

 

松江カツライスの成り立ち

 

 では松江カツライスは、どのように成り立ったのでしょうか。松江カツライスの成り立ちについては、正確な文献や言い伝えは残っていません。ただ、初代西洋軒店主が、松江に西洋軒を立ち上げた当時の状況から、いくつかの可能性が推測されます。

 

1.初代西洋軒店主が大阪でカツライスに出会った。

 前述のように、初代店主は神戸の「精養軒」という店で修行をされています。この当時すでに国鉄、阪神電車、阪急電車と神戸大阪間の鉄道は整備され多くの人が行き来していました。そんな中、神戸で修行中の初代店主が大阪で様々な洋食店を巡った可能性は十分に考えられます。当時多くの客で賑わっていた初代大井食堂に行ってカツライスを食べていても何の不思議もありません。

 

2.大阪でカツライスを食べた客が神戸精養軒に伝えた。

 大阪、神戸間は当時すでに多くの人が行き交う状況であったことは前述いたしましたが、中でも大井食堂があった大阪浪速区、西成区界隈には多くの靴問屋がとされています。一方、神戸といえば靴の製造で有名な長田を有します。製造、問屋の間で特に多くの人が行き交った事は想像に固くありません。大阪で衝撃的なカツライスに出会った客が神戸の洋食店で「大阪にこんなもんがあった。ここでも作ってくれ。」と伝えたとしても何の不思議もありません。

 

3.大阪でカツライスを食べた客が創業期の松江西洋軒に伝えた。

 1928年(昭和3年)伯備線の全線開通に伴い当時、すでに山陰と山陽、更には関西との交流は盛んであっただろうと考えられます。鉄道が主な交通手段だった当時の状況として、地方での物品の需要に対してそれを都会の問屋まで鉄道で直接仕入れに行って持ち帰るというスタイルが主流であったと思われます。当然、西日本最大の問屋を有する大阪まで仕入れに出向いた業者も(例えば靴)多数いたことでしょう。そのような業者は一刻も早く仕入れを終えて地元に戻り品物を現金化する必要がありました。しかし折角大都会に出向いたので地方では味わえないハイカラな洋食を食べて帰りたい。そんな中で、当時相当ハイカラであったと思われるカツレツを、手軽にスピーディーに食べることが出来るカツライスは、このような人々の需要にマッチしたのではないでしょうか。松江からもこうしてカツライスに出会った人がいた可能性は十分に考えられます。そのような人たちが松江にも西洋料理の店ができると聞き、大阪での経験を自慢しつつカツライスをメニュー考案中であった初代西洋軒店主に伝えたとしても何の不思議もありません。

 

4.たまたま偶然に西洋軒で考案されたカツライスが大阪大井のカツライスに酷似していた

 松江で創業した初代西洋軒店主は開店にあたり考えうる限りの西洋料理をメニュー化したそうです。その中で偶然に生み出された物が大阪大井のカツライスに酷似していたという推論です。しかし、偶然にとは言っても、それに導く様々な要素がある事も事実です。例えば1929年に発生した世界恐慌で物資が不足する中比較的手に入りやすい物を使う事が必要があった。明治時代より一部の人の物でしかなかった洋食が次第に庶民に広がり、更に地方に広がる中でワンプレート等、手軽にスピーディーに食べる事ができるメニューが求められるようになった。庶民にとってまだ黎明期であった洋食を学ぶ料理人はその師匠を辿るとそれほど遠くない共通、または近縁の師匠に行き着く時代その手法にある程度の共通点が出てきても不思議ではなかった。など、ある意味時代的な必然性は有ったのかも知れません。そのような中で別々に生み出された創作メニューがたまたま酷似していたということが有っても決して不思議な事ではないと考えられます。

 

松江カツライスのその後

 

 昭和7年頃に誕生したと考えられる松江カツライスですが、その後いくつかの他の店舗にも波及していったと考えられます。

その中でも、現在はもう存在しない幾つかの古くからの洋食店で、松江カツライスが提供されていた記録(記憶)が残されています。その中で代表的として「森永キャンディストア」と「仏蘭西屋」があります。これらの店は、ちょっとしたお祝いごとや記念日にご褒美的に使われることも多く、一定年層以上の松江市民にとって「カツライス」は、特別な思い出として記憶に残っている方も多いようです。その後戦後の復興期以降多くの洋食屋、レストラン、喫茶店、食堂に広まり島根県安来市から横田、仁摩に及ぶ範囲で市民権を得てこの地域ではカレーやカツ丼のような定番のメニューとなって行ったと考えられます。

 

松江カツライスの現状

 

 ある年代以上の松江市民にはソウルフードとも言える松江カツライス。現在、東は安来市、西は大田市仁摩町、南は奥出雲町横田に及ぶ範囲でカツライスを提供する店を確認しておりますが、その数は年々減少傾向にあります。近年閉店したカツライスを提供する店を挙げると、多胡食堂、花紬、サタン、ぴぃす、木次ドライブイン、みなと食堂などが惜しまれつつ姿を消しました。

その一方で現在でも40店舗を超える店でカツライスは提供されています。しかし、そのような店の中にも店主が高齢であったり、地域の過疎化や高齢化が進んで店自体の存続が危ぶまれたりという現状が進んでおり、この食べ物がやがてこの地域から姿を消してしまう事が懸念されています。

 

松江カツライスの今後にむけて

 

 松江カツライスについて一つ言及しておかなければならないのは、多くの島根県民、松江市民はこのカツライスが特定の地域にしかない特別な食べ物であることに気がついていない点です。私自身は実は出身が関西でその後、鳥取、岡山に住んだことはありましたが、松江に住むようになって初めて松江カツライスに出会いました。最初にカツライスに出会った時「なんじゃこれ!!」言うのが印象でした。それとは逆に上京した松江人が東京でカツライスを食べようと思ったが、どこにもそのようなものがなかった。やっとカツライスを見つけて頼んでみたらライスとカツが別盛りの普通の「とんかつ定食」が出てきて「なんじゃこれ!!」と思った、という逸話を聞いたことがあります。よそ者の目で見て、または自分がよそ者の立場になって初めて見えて来ることがあるんですね。

 このように松江カツライスは現在のところ市民の認知度が低いのとは裏腹に十分に歴史を持った地域グルメになりうるメニューであると考えられます。今後は地域食、地域グルメ、果たしてはB級グルメとしての松江カツライスの内なる認知度を高めるとともに、地域アピールの一因として広く外に広めることができればと考えています。