カツ丼の歴史

 カツ丼の歴史

 

カツライスについて考える中で、それに関連してライスの上に豚カツを乗せる、別の食べ物についても考察いたしました。

その中でも最も古い歴史を有すると思われる豚カツについて、その歴史を考えてみます。

 

豚カツの誕生

 明治32年、「煉瓦亭」でポークカツレツが開発されます。それまでも西洋料理のポークカットレットという料理がありましたが、薄く切った豚肉に小麦粉・卵・パン粉で衣をつけた物をフライパンで炒め揚げしたもので大変手間のかかる料理で同時に高価な料理でした。それを天ぷらの原理で大量の油で揚げたのが煉瓦亭のポークカツレツでした。この方法なら、同時に何枚かのカツレツを揚げることが出来、油も使いまわしができるため安価に大量のカツレツを作ることが可能になり「カツレツ」が比較的手に届きやすい料理となりました。

 

カツ丼の始まり

 これには諸説があります。

 

1.その中で最も古いものは「甲府説」で明治30年代に「奥村本店」(創業は江戸寛文年間)で、明治32年に開発され、すぐに評判となったカツレツを東京で食べた「奥村本店」の由井新兵衛が、自店にカツレツを持ち込むに当たり、当時、ご飯物は出前が多く親子丼や天丼が中心だったのに合わせ、カツレツを丼として提供したというものです。「奥村本店」は現存し現在でもかつ丼を提供していますが、その中で興味深いのは「かつ丼」と「煮かつ丼」の存在です。

「かつ丼」と頼むと丼に揚げた「カツ」と千切りキャベツ、レモン、トマト等が乗り、ソースを後がけするスタイルのかつ丼が登場します。これは、まるで、今でも現存する「煉瓦亭」の「元祖ポークカツレツ」がそのまま丼に乗ったようなルックスとなっています。

社会的背景を見ると、明治36年に東京-甲府間が鉄道で結ばれています。東京との行き来が容易となり、東京での評判を聞きつけた新しもの好きの由井氏が「煉瓦亭」(またはそれ以外のカツレツ提供店)に出向いたとしても不思議ではありません。これが正しければ甲府で初めてカツ丼が生み出されたのは明治36年以降となります。

このような状況証拠からも「甲府説」にはそれなりに説得力があると思われます。

 

2.次に古いものが「ヨーロッパ軒説」です。初代店主、高畠増太郎氏が6年間のヨーロッパ修行の後、大正2年(1913年)早稲田鶴巻町に店を構える前に料理発表会でソースカツ丼を披露したというものです。

 しかし、敢えて個人的な見解を述べさせていただきますと、高畠氏がここで現在のヨーロッパ軒で提供されているようなソースかつ丼を披露したというのは、少し無理があるのではないかと考えます。高畠氏の主な修行先はドイツだったと言うことですが、もちろんドイツにはこのような「ソースかつ丼」と言う様な料理は存在しません。ドイツで「カツ」に当たる料理は、ドイツ版のコートレットである「シュニッツェル」になります。帰国後すぐの発表会で、ドイツで学んだ物をいきなり和風の丼にアレンジして披露するというのは、個人的には少し無理があるように感じます。また、手間のかかるシュニッツェルを、より大衆的な丼にする事にも無理があるように思われます。やはり、ここで披露されたのは純粋に「シュニッツェル」だったのではないでしょううか。

 その後、大正6年に『(早稲田)正門前の鶴巻町を少し行った右側』の『余りパッとしない食堂』(ヨーロッパ軒を茶化したものと思われる)でソースカツ丼を食べたという早稲田高等予科(当時)学生の証言があり、これがヨーロッパ軒の事だろうとされています。これが正しければ、大正6年にはソースカツ丼が提供されていた事になり、大正2年から6年の間にソースカツ丼が開発されたと考えるのが自然ではないかと思われます。

 一方、高畠氏は福井県の出身で、この間福井に帰省をする機会も有ったのではないかと想像されます。当時の鉄道網によると、東京から福井までの行程としては東海道線から北陸本線に乗り継ぐのが一般的であったと思われますが、1889年(明治22年)東海道線全通、1898年 (明治31年) 北陸線 米原〜金沢開通、1911年(明治44年)中央本線全通と福井への新しいルートとして中央本線経由という選択肢が有ったため、甲府を経由した帰路を選択する可能性も有ったかと思われます。当時の鉄道旅では東京-福井間を1日で移動するのは難しかったと思われ、途中下車で甲府に降り立って、話題のかつ丼に接したと考えても何の不思議もないように思います。

 全くの空想ですが、甲府で「かつ丼」に触れた高畑氏が自身の店で同様のものを提供するに当たり、シュニッツェルをより手軽な「カツレツ」に変更し、ソースが掛けられた状態で提供される場合が多いシュニッツェルに習ってソースが掛かったかつ丼として提供が始まったと考えられないでしょうか。

 

3.その次に古いのが早稲田の「三朝庵説」です。大正7年、仕出しの注文を受けて余ったトンカツを、学生のアイディアで親子丼とのように卵でとじてご飯に載せたのが始まりとされています。

 

4.そして最後が 大正10年(1921年)、早稲田高等学院の中西敬二郎氏が「カフェーハウス」という学生がよく出入りしていた店で厨房に入り、ポークカツレツを小さく切り、どんぶり飯にのせ、ソースを煮詰めて上からかけ、これをカツ丼と名付けた。

 

 上記2つの説については、いずれも早稲田の学生が絡んだエピソードとなっていますが、この時すでにヨーロッパ軒がソースかつ丼を出していた可能性が高く、それを知っていた学生が、ヨーロッパ軒のかつ丼に習ったかつ丼を提案したと考える方が自然に思えます。なお、三朝庵については、卵とじタイプのかつ丼の発祥である可能性はあると思います。

 

 卵とじタイプの豚カツより、恐らく古くからの歴史があると思われる「ソースカツ丼」についてはこちらに記載しました。