ソースカツ丼

 カツ丼の原型はソースカツ丼だったと考えられています。明治30年代(1897年-1906年)の後半に、現在も営業する甲府市の「奥村本店」で初めて提供されたという説が有力ですが、福井ヨーロッパ軒創業者の高畠増太郎が欧州からの帰国後、1913年(大正2年)に早稲田大学前に開いたヨーロッパ軒で提供したのが最初であるという説、1921年(大正10年)、早稲田の高校生だった中西敬二郎の提案で、行きつけの「三朝庵」(2018年7月に惜しまれつつ閉店)で生まれたという説、またこの時のカツ丼は、初の「卵とじかつ丼」だったという説や、初の卵とじかつ丼は1921年に大阪で登場したとの説など諸説入り乱れています。いずれにしても、これらのソースカツ丼のルーツはデミソースを使った「カツライス」系の歴史より古くから存在すると思われます。

 ソースカツ丼を提供する地域は比較的多く、東日本に偏っている傾向があります。

 地域性を持ってソースカツ丼が提供されているところ

訓子府たれカツ丼:1933(昭和8)年開業の「食事処福よしが」1935(昭和10)年に客からの声をヒントに出した。

一関ソースカツ丼:大正12年創業の「松竹」で玉子嫌いの初代店主が玉子を使わない料理として考案。

新潟タレカツ丼:昭和初期、市内中心部の堀端に出ていた洋食屋台の一つが提供した。

会津のソースカツ丼:昭和5(1930)年創業の「若松食堂」が元祖とされる。東京浅草から開店時コック2名き目玉商品として名前と製法を考案。

会津の柳津風ソースカツ丼:発祥については不明、昭和32年創業「すずや食堂」の可能性。

喜多方ソースカツ丼:1947年創業の「まこと食堂」で1980年頃提供を始めたのが発祥?

前橋ソースカツ丼:大正4年創業の「西洋亭 市」の女性店主がすぐに作れる・食べれるように作った。しかし開発年についての詳細はない。

桐生ソースカツ丼:大正15年、1926年創業の「志多美屋本店」が発祥

下仁田カツ丼:(醤油ダレ):詳細不明。昭和12年創業の食堂「きよしや食堂」発祥?

早稲田ソースカツ丼:大正5年前後ヨーロッパ軒で提供開始された?

甲府ソースカツ丼:1660年代創業の「奥村本店」で恐らく明治35年前後に開発れた。

福井ソースカツ丼:大正13年福井ヨーロッパ軒創業と同時に提供開始された。ルーツは早稲田ヨーロッパ軒。

飯田のソース煮カツ丼:昭和20年代から「満津田食堂」で飯田のソース煮カツ丼を提供。

伊那ソースカツ丼:昭和21年伊那町の「青い塔 」の先代が始めたソースかつ丼(愛称「ひげのとんかつ」)が元祖

駒ヶ根ソースカツ丼:昭和3年創業「きらく」初代が起源。「カツライスからヒントを得て」と説明されている。

 

(読み物)ソースかつ丼と玉子とじカツ丼 -かなりの長文です。ご了承ください。-

 

 玉子とじカツ丼とソースかつ丼の歴史の中で、上記の通り、恐らく先に登場したのはソースかつ丼だろうと思われます。

ではその後それぞれのカツ丼はどう広がったでしょうか。

 玉子とじカツ丼は、大正7年頃の東京発祥説、大阪発祥説がありますが、その後またたく間に全国に広がったと考えられます。その理由は、とじカツ丼を広めるのに都合の良い条件を備えた場所があったからです。それが蕎麦屋、うどん屋です。そもそも、とじカツ丼発祥とされる三朝庵は蕎麦屋です。元々、とじカツ丼はその蕎麦屋の有り合わせで作られたと考えられます。出汁はそばの「かえし」をそのまま使えばよいし、カツを揚げるための油は天ぷら用に用意されていました。そのため、既に全国に広がっていた蕎麦屋で容易に再現することが出来、またたく間に全国に広がったのではないかと考えられます。

 それに対し、ソースカツ丼は限定的な広がりしか確認されていません。まず、古くからソースカツ丼が地域に根付いている所は、東日本にしか見られません。

それらは、単発的に生み出されたのかも知れませんが、個人的にはどこかにルーツがあって、それが少しずつ形を変えて伝わっていったものと考える方が自然に思えます。

だとすれば、発祥年代、カツ丼の特徴、地理的条件などから、どのような流れでそれぞれの地域に伝わっていったと考えるのが自然なのか推察できるのではないでしょうか。

そんな、仮定に立って各地に散らばるソースカツ丼の繋がりを大胆に推理してみたいと思います。

 ただ、その前に話しの成り行き上、カツの種類についての整理が必要となりますので、ここで言う3種類のカツの種類について、まず説明させていただきます。

カツのルーツは西洋料理のカットレット(ドイツではシュニッツェル)です。薄く切った豚肉に小麦粉・卵・パン粉で衣をつけた物をフライパンで炒め揚げしたもので、1枚1枚手焼きにするため、大変手間のかかる料理です。それを、もっと手軽に大量に作ることができるよう、日本の天ぷらのように大量の油で揚げたものがカツレツです。これはカットレットで使用する肉を使うため薄い肉に細かいパン粉をまぶしたものになります。それが後年、厚切りの肉に粗い目のパン粉をまぶして揚げる豚カツが発明され、現在はカツといえばほぼこれを指します。これ以降それを踏まえて、「カットレット」、「カツレツ」、「豚カツ」と使い分けて使用します。

 

 ここから先は全て大胆な推論に基づくもので事実と異なる可能性もあり、一切の責任を負うものではありません。単なる読み物として御覧ください。

現在、古くからの歴史を持ってソースカツ丼、タレカツ丼を提供する地域は私の知る限り下のような地域となります。(網羅できているかどうかは不明です)

(北から)

訓子府たれカツ丼:1933(昭和8)年開業の「食事処福よしが」1935(昭和10)年に客からの声をヒントに出した。

一関ソースカツ丼:大正12年創業の「松竹」で玉子嫌いの初代店主が玉子を使わない料理として考案。

 ※大正14年創業の「小角食堂」で1960年頃「あんかけカツ丼」が考案される。

新潟タレカツ丼:昭和初期、市内中心部の堀端に出ていた洋食屋台の一つが提供した。

会津のソースカツ丼:昭和5(1930)年創業の「若松食堂」の「ソースカツ丼」の元祖とされる。東京浅草から開店時コック2名き目玉商品として名前と製法を考案。

会津の柳津風ソースカツ丼:発祥については不明、昭和32年創業「すずや食堂」の可能性。

喜多方ソースカツ丼:1947年創業の「まこと食堂」で1980年頃提供を始めたのが発祥?

前橋ソースカツ丼:大正4年創業の「西洋亭 市」の女性店主がすぐに作れる・食べれるように作った。しかし開発年についての詳細はない。

桐生ソースカツ丼:大正15年、1926年創業の「志多美屋本店」が発祥。

下仁田カツ丼:(醤油ダレ):詳細不明。昭和12年創業の食堂「きよしや食堂」発祥?

早稲田ソースカツ丼:大正5年前後ヨーロッパ軒で提供開始された?

甲府ソースカツ丼:1660年代創業の「奥村本店」で恐らく明治35年前後に開発れた。

福井ソースカツ丼:大正13年福井ヨーロッパ軒創業と同時に提供開始された。ルーツは早稲田ヨーロッパ軒。

飯田のソース煮カツ丼:昭和20年代から「満津田食堂」で飯田のソース煮カツ丼を提供。

伊那ソースカツ丼:昭和21年伊那町の「青い塔 」の先代が始めたソースかつ丼(愛称「ひげのとんかつ」)が元祖

駒ヶ根ソースカツ丼:昭和3年創業「きらく」初代が起源。「カツライスからヒントを得て」と説明されている。

 

分かり辛いので年代別に並べ替えてみます。

 

1902年頃 甲府「奥村本店」ソースカツ丼開発? :千切りあり、ソース後がけ 現在は肉厚切り

1913年 早稲田ヨーロッパ軒創業 :千切りなし 肉薄切り

1915年 前橋「西洋亭 市」創業 ※創業時にはまだソースカツ丼がなかった可能性。(推察) :千切りなし 叩いた薄い肉

1916年頃 早稲田ヨーロッパ軒でソースカツ丼提供(推察) :千切りなし 薄切り

1920年 一関「松竹」創業 ※提供開始年は不明  :うなぎ屋で研鑽を積んだ2代目が試行錯誤の上開発。千切りあり 

 カツレツタイプと豚カツタイプが用意されている カツ丼提供は1923年以降の可能性が高い。

1924年 福井ヨーロッパ軒創業 恐らく創業と同時に提供開始

1926年 桐生「志多美屋本店」創業 ※提供はこれより後だった可能性。(推察)

1928年 駒ヶ根「きらく」創業 ※提供はもっと後?(推察)

1930年 会津「若松食堂」創業 創業とほぼ同時に提供開始の可能性(推察)

1931年頃 新潟 堀端に出ていた洋食屋台「とんかつ太郎」創業

1935年 訓子府「食事処福よしが」提供開始

1937年 下仁田「きよしや食堂」創業 提供開始については詳細不明

1945年 飯田ソース煮「満津田食堂」 提供開始

1946年 伊那「青い塔」 ひげのとんかつ提供開始

1947年 喜多方「まこと食堂」創業 提供開始は1980年頃

1957年 会津柳津風「すずや食堂」創業

 

 ここで、一つ問題があります。よく、ソースカツ丼のルーツは?的な論争の中で、発祥の店の創業年を上げてこちらの方が古いという議論がありますが、これは大きな間違いだろうと思います。例えば甲府の奥村本店のように、1660年頃創業といった場合、1660年にはカツ丼は絶対に無かったと断言できます。「カツ丼の歴史」でも推論した通り、甲府でカツ丼が生み出されたのは明治36年以降だと考えられます。創業年は、あくまで「それ以降に発祥した」事を示すものでしかありません。

 さて、「カツ丼の歴史」でも述べたように、恐らく日本で初めてカツ丼を生み出したのは明治36年以降の甲府の「奥村本店」そしてその次が大正2年-5年の「ヨーロッパ軒」だろうと思います。

 これに続いて、大正4年に前橋「西洋亭 市」が創業していますが、1889年(明治22年)に東京-前橋間の鉄道は既に開通していたため、東京の文化と触れる機会は多々あった物と考えられます。「西洋亭 市」のカツ丼は千切りがなく叩いた薄い肉を使用していることから、カツレツの流れを汲むものだろうと思われます。そのことから、恐らくルーツは「ヨーロッパ軒」ではないかと考えられます。そうだとすれば、前橋ソースカツ丼の発祥はヨーロッパ軒でカツ丼が提供されるようになって以降、(1916年:大正5年以降)ではないかと推察されます。

 続いて、歴史的に古いのが1920年:大正9年創業の一関ソースカツ丼「松竹」となります。うなぎ屋で修行をした2代目が卵嫌いであったため、試行錯誤の上編み出した、とされています。ここのカツ丼は恐らく元々はカツレツタイプで千切りキャベツを敷いた物となっていて、これは信州系を思わせます。しかし、少なくとも1924年:大正13年頃にはメニューとして存在したという証言があることから、1928年:昭和3年以降に登場したと考えられる(後述)信州より古いと考えられます。その意味でもこの店オリジナルの開発の可能性が高いと思われます。ただ、ソースを使ったカツ丼という発想自体は1923年の関東大震災でほぼ壊滅状態となった関東地方から当時、地方に多く流れたとされる料理人たちが何らかの形で伝えたと考えるのが自然で、1923年:大正12年以降に開発されたメニューではないかと推察いたします。

 この後、1924年:大正13年に関東大震災で地元に戻ったヨーロッパ軒の高畠氏が福井にヨーロッパ軒を開業し持ち帰ったソースカツ丼をメニューに乗せました。

 続いて、1926年:大正15年or昭和元年に桐生の「志多美屋本店」が創業します。元々兄弟で兄は「志多美屋」といううなぎ料理の店、弟は「浜松家」という定食の店をやっていたのが、兄の引退に伴い「志多美屋本店」として弟が統合したのが始まりとされていて、その後カツにかけるソースと、うなぎのタレを組み合わせてカツ丼が誕生したとされています。試行錯誤の開発にはそれなりの時間がかかると考えられますので、ここでのカツ丼提供は1926年:大正15年以降ということになります。タイプとしては複数のカツをご飯の上に直接乗せるタイプで、地理的にも近く、恐らく1916年:大正5年以降にすでに開発されていた前橋のカツ丼に習ったものと推察されます。

 次に上がるのが1928年:昭和3年創業の駒ヶ根の「きらく」です。こちらのタイプは御飯の上に千切りキャベツと「豚カツ」となっており、恐らく同じ中央本線上にある甲府を参考にしたものと思われますが、カツが「カツレツ」ではなく「豚カツ」であることから少なくとも、上野御徒町「ぽんち軒」で現在の形の「豚カツ」が開発された1929年:昭和4年以降に開発されたものだろうと思われます。なお、ここのカツ丼は「カツライス」からヒントを得て開発されたとされていますが、ここで言うカツライスは大阪や松江のカツライスの事ではなく、関東などでよく見られる豚カツ定食=カツライスのことを指しているのではないかと想像します。ここのカツが「カツレツ」ではなく「豚カツ」なのもそれを表しているとも言えそうです。

 続いて1930年:昭和5年 会津「若松食堂」が創業します。ここのタイプはご飯にキャベツの千切りを敷「豚カツ」を乗せるもので、駒ヶ根に類似しています。この駒ヶ根=信州と会津は距離的に遠く一見何の繋がりもなさそうに感じますが、実は江戸時代から強い繋がりのある地域なのです。それには保科正之による所が大きいと思われます。徳川秀忠の息子である保科正之は仁心無私の人として知られた名君でしたが、正妻於江与の方の嫉妬から守るため、信州高遠藩主保科正光の元へ養子に入り、子供時代を高遠(駒ヶ根の近く)で過ごしました。その後、26歳で山形へ転封し、33歳で会津藩主となりました。このような縁で、古くから信州と会津は人的、文化的なつながりが強く「饅頭の天ぷら」や「高遠そば」や会津郷土料理「根曲がり竹と鰊の味噌汁」と信州の「サバ缶と根曲がり竹の味噌汁」など類似の食文化など強い繋がりを示すものが多くあると言われています。このことからも、信州駒ヶ根のカツ丼が会津若松に受け継がれたとしても何の不思議もないように思われます。

 続いて。ソースカツ丼ではありませんが、1931年頃:昭和6年頃、新潟の堀端に出ていた洋食屋台「とんかつ太郎」が創業します。この店はタレカツ丼発祥の店とされています。タレカツ丼はソースを使用せず醤油ベースのタレを使用するのでソースカツ丼ではありませんが、その見た目は「ヨーロッパ軒」の物とそっくりです。北前船から続く日本海側の航路で繋がっていた福井と新潟なのでタレカツ丼は福井のソースカツ丼を参考に作られたのかも知れません。

 続いて1933年:昭和8年、訓子府の「食事処福よしが」が創業、その後1935年:昭和10年に客からの声をヒントにソースカツ丼が考案されたとされています。ここのカツ丼は御飯の上に刻み海苔を敷きソースカツを乗せるという今までに無かったタイプで、恐らく他地域とは距離的にも大きく離れたこの地で、また聞きで作られたためこのような形になったのではないかと考えられます。

 続いて、1937年:昭和12年、下仁田で「きよしや食堂」が創業します。提供開始年は不明ですが、この後間もなく日本は第二次世界大戦へ突入しますので、カツ丼の提供は場合によっては戦後になってからなのかも知れません。ここのカツ丼は御飯の上にタレに潜らせた「豚カツ」が二枚という出で立ちです。場所的には前橋や桐生の影響を受けたものだと思われますが、時代的にカツレツが豚カツに代わって、それでもカツレツを数枚乗せる前橋や桐生のカツ丼のインスパイアとして見た目の印象を守るため豚カツを二枚にしたのではないかと想像いたします。

 続いて、創業は1887年:明治20年という飯田の「満津田食堂」です。こちらではソース煮カツ丼という独特なカツ丼が1945年:昭和20年頃より提供されています。このカツ丼はソースカツ丼でありながら玉子とじの形で提供されます。このようなタイプのカツ丼は実は日本でもう1箇所、会津地方にも存在します。1957年:昭和32年創業の会津柳津の「すずや食堂」で提供される柳津風ソースカツ丼です。ここでも、信州と会津で同様の文化と言うことで両地区の結びつきの強さが伝わります。

 続いて1946年:昭和21年、伊那の「青い塔」で提供が開始されたとされる「ひげのとんかつ」です。店主の風貌からこのようなあだ名になったとされています。地理的にはお隣同士の駒ヶ根と伊那ですが、かつてソースかつ丼元祖の地位を巡って市長を巻き込んでの議論に発展したこともあるようです。しかし、両者とも御飯の上にキャベツ、その上に「豚カツ」と同じ形態で歴史的に古い駒ヶ根のカツ丼が伊那に伝わったと考えるの自然です。

 最後に1947年:昭和22年創業の喜多方「まこと食堂」です。タイプ的にはご飯に千切りキャベツと豚カツで、地理的条件を見ても会津から伝わったと考えられます。なお、この店でカツ丼が提供されるようになったのは、かなり後の1980年:昭和55年頃とされています。